Cinematic

映画のような日々を🕊

親という生物になっていくこと

 

次の搾乳の時間はどうしよう?どこでしよう。

 

朝起きてスマホの時計を見て1番初めに考えるのはこれになった。前までならパソコンを開いてTwitterを見てそれから1日のスケジュールを考えてた。少しずつ自分が奪われていって子供の養分になっていってる気がする。これが子供中心になってくってことなのかもしれないです。

 

朝ごはんを食べてる時にこの話をした。

 

旦那も同じことを思っていたらしい。私たちの分担で搾乳したものを洗うのは彼の役悪になっている。わたしが搾乳して終わったら声かけて彼に洗ってもらう。家にいるときのご飯の準備はほぼ彼にしてもらってた。(これは出産前から)

 

でも彼の捉え方はわたしのそれと少し違った。

 

「僕らの成長するためだけ、自分のためだけの時間はもう来ないのかもしれないね。これからは僕らが学ぶことは同じように赤ちゃんも学ぶし糧になる。与えられる側から搾取される側になったんだ。でもそれって最高に幸せな時間だと思う。だって僕たち2人が生きてきた証が赤ちゃんに引き継がれていく。ってことでしょう?今までの努力が無駄ではないってこと。」

 

そうかもしれない。

 

この子を産む、と決意したときわたしは赤ちゃんのためにというよりも自分のために産もうと思ったのを覚えている。誰かのために優しくなんてできない。本当はどこかで見返りを求めているんだ。だから赤ちゃんが大人になったとき何かしてもらおうなんて一瞬でも考えたくなくて自分のために産むことにしました。

 

赤ちゃんが大人になったときどんなふうに育っているかで私たちは人生の中での1つの答えを見つけられるのかもって彼の返答で思えて楽しみに変わりました。

 

いつかの本に書いてあった”赤ちゃんはなんでも理解できる”というフレーズ。前は半信半疑に思ってたけどここ数日のNICU訪問で赤ちゃんの可能性というか理解力を体感しています。

 

「ばいばい、また明日。」って言って帰った日と「また来るからね、待っててね。また明日。」と待っててもらえるように言った日で翌日の反応が若干違う気がする。赤ちゃんだって急に何も言われずにいなくなったら怖い。ちゃんと理解してるのかもしれない。

 

赤ちゃんだから、って諦めるのをやめようと思います。ちゃんと理解できるんだ。

 

その理解できるかもしれないという可能性を信じるのが親の役目なのかもしれない。